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消極性の中にある安心感

最近考えていることをここに書きとめて置きたい。

この考えは、4日土曜日にウェストランドさんの家にやってきた建築家のジョー・ウォーラーさんと「ウィザード」というカードゲームをしたときから今出発が遅れていることについてつながってきたことだ。

私は、このゲームは、まだ習ったばかりで、ゲームをする前に、何枚のセットのカードを獲得するか予想しなければならない。私は、自分のカードが余りにひどいので、1回、2回、3回と続けて、ゼロと予想した。そして、勝とうとしないで、あえて負けることをよしとすることとした。ところが、他の人は、一生懸命できるだけ多くのカードを取ろうとして、必死になって結局取れなくて、マイナスになる。終わってみたら、私は、2位の人を100点ほど追い抜いて優勝した。ところが、自分が勝ったという気分が全くない。

これが、主の働きに仕えることにつながっていると感じた。一生懸命計画して、その計画にしたがって一生懸命汗を流し、そして、うまく行けば、自分が勝利感や満足感を得る。ところが、主のみこころに従うということは、自分に負けることから始まる。むしろ、自分の予定が進まないけれど不思議に別の道が用意されて、そこに進んでいくと働きが進んでいるんだか進んでいないんだか実感が浮かばない。そして、だれかに、「良かったね」と言われても、達成感が浮かばない。もしかしたら、これが主の働きにつくということかも知れない。

能力のある人は、能力で進む。そして、その能力で勝利し、勝ち取り、そして、誇り、達成感を持つ。でも、それでは、主が、パウロさんを通して語ったコリントのことばが、「違うんじゃない」と語りかける。

Iコリント1:28

「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」

IIコリント12:9-10

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。



私たちは、自分の能力による勝利ではなく、先を見ることができない限界ある自分、時には、自分の弱さや、主に従うことでの困難や苦痛を実際にこの身に受けながら、その中で、主のよみがえりの力を祈り、永遠から永遠に変わらない英知を持たれた私たちの主におすがりし、そして、「だめだなあ」と負の自分を味わいながら、みことばと内なる御霊の導きの中で開かれた一筋の小道を進むのではないか。


60歳になり、体に弱さを感じ特にこのごろそう思う。恐らくある人にとっては、このブログは、弱虫のブログだと映るかもしれない。でも、弱虫だと思う人は、もう一度、主にあって生きるということを聖書のみことばを通して考えて欲しいと思う。



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プロフィール

松村隆(パスター・フィリップ)

Author:松村隆(パスター・フィリップ)
1952年生まれ。埼玉県浦和育ち。1984年から海外にて言語研究や翻訳の働きに従事。2000年に原因不明の病気で帰国。2001年に児玉福音自由教会の牧師に就任。2010年2月正式にNGOのコンサルタントの働きに復帰。2013年6月日本に帰国。61歳。

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