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何か吹っ切れた?!

体が疲れやすいのは、センタニでかかった病気や、腰痛のせいだろうか。でも、何か心の中に新しい風が吹いている。今朝、木の下にある長いすに腰を下ろしてインスタント・コーヒーを飲みながら草や木々の青さに目を細めながらカイマナに戻って来ることができた恵みを味わった。何だろう、この2ヶ月は、必要な心の洗濯だったのかも知れない。それまで、カラオケでうるさかった近所の人にも耐え切れないでいたが、帰ってきて自然に笑顔で話せる。昨日は、奥さんが鳥の肉まんを作って来てくれた。自分のものと、人のものの区別ができないイラルトゥの人たちが、やたらと寮から色々なものを借りていったまま返していない。怒りが湧いてこない。笑って、リトに「取り返して来たら」と言える。歯が欠けて余り使い物にならない斧も、SMSで、「斧返してくれますか」と打って、今朝戻ってきた。なくなったものがあるが、日本式に考えればどうしようもない。ディシプリンという意味はどんな意味なのだろうか。「借りる」という意味はどういう意味なのだろうか。あまたに来ない。彼らを受け入れようという心が芽生えてきた。なぜ?

今朝は、久しぶりにマックス牧師の教会で礼拝をした。それにしても、教会がみことばを語るということの大切さを味わった。ヘブル書11章から信仰についてのメッセージであった。この教会に家内に連れられて来たのだが、良かったと再び思った。自分の日本の教会に似ている。牧師が国教会の公務員だった北欧の教会の中に、みことばを信じて御霊が働かれて救われる人々が始めた霊的覚醒による信徒による非公式な交わりの中に福音自由の元祖がある。「そのことは、聖書のどこに書かれていますか」を合言葉にしてきた私たちの霊的祖先は、この教会ともつながっている。牧師が、みことばをまっすぐに語らなくなるとき、教会の規約や伝統がみことばを乗り越えようとするとき、教会がキリストの教会としての役割を失っていく。そして、信徒は、ただ形だけ整った教会の中で霊的に死んでいく。教会は、伝統で何とか踏ん張ろうとする。でも、それは、髪を切られたサムソンのようだ。もう一度、教会とは何なのか、主から御霊とみことばによって教えていただくまで、力がない。

翻訳と寮の立ち上げで戦う一週間の終わりの日(創世記的には、7日目)、よみがえりの日を考えれば、週の初めの日、礼拝に行く。ある意味、お付き合いで行っていた前の教会では、講壇からみことばが語られなかった。私の内にある、聖霊なる主が、全く私の心を揺り動かさなかった。説教ではなく、講義であった。私は、講義を聞いて次の週一週間戦うことができなかった。牧師の大切さを思う。それは、賜物というよりも、牧師がみことばに生かされているかということではないか。

100冊印刷されたマタイ伝を読んで驚く、「このようなすばらしい翻訳はどこから来るのだろうか。」まるで自画自賛のようであるが、動機はそこには全くない。もちろん、ヨハン兄を初め私たちは、一生懸命翻訳し、経験を積んできた。その経験なしには、生まれない。でも、印刷されたものを読んで驚くのは、それは、そこにある人を生かす神のことばが生き生きとしているということだ。人の業ではなく、聖霊の業だ。色々お世話になった人に、感謝を持って配っている。来年は、5つの書を2000冊から印刷する。そして、今、イラルトゥの人々がこの聖書の分冊を手に立ち上がる機運を小さな交わりの中に感じ始めている。主が一体この人たちにこの永遠のことばを持って何をしてくださるのだろうか。人は、風がどこから吹いてどこへ行くのか知らない。しかし、主のなさることは時にかなって美しい。

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プロフィール

松村隆(パスター・フィリップ)

Author:松村隆(パスター・フィリップ)
1952年生まれ。埼玉県浦和育ち。1984年から海外にて言語研究や翻訳の働きに従事。2000年に原因不明の病気で帰国。2001年に児玉福音自由教会の牧師に就任。2010年2月正式にNGOのコンサルタントの働きに復帰。2013年6月日本に帰国。61歳。

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